ヤッホー!暮らしの往復書簡vol.32 宿について

2021.07.13

コラム

これは、私が佐那河内村の隣、神山町に住むフードフォトグラファー・近藤奈央(こんどうなお)さんとの公開往復書簡です。日々の暮らしの中で思ったこと、気づいたことをお互いのブログでお手紙のように伝えていきます。近藤奈央さんのサイトhttps://magewappa-bento.com/

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なおさん、こんにちは。前回の記事で、「宿る」ということについて考えさせられました。

せっかくなので、以前のように漢字の辞書「字統」を頼りに「宿」という文字について簡単に調べると、

ー ウ冠は神聖な場所を示しており、その下で イ(ニンベン=人)が むしろに横たわっている様子 ー

ということでした。人が神聖な場所で休息しているという様子が伺えます。

宮島の鳥居の下にいる人々

前回のお話に置き換えると、私たちの体に宿っている大小の生命体は、私たちの体という”神聖な場所、神聖な容れ物”で休んでいるわけです。

私たち人間の体が、元来いかに神聖なものなのか、ということについて強調したくなりました。

人は思考することができ、その主管は脳であると考えがちです。でも本当にそうでしょうか?

極端な例ですが、体に何か病気の症状が現れたとします。一体何が起きているのかと症状をネットで検索して自分にしっくりくる病名を見つけ、自分はこの病にかかっているのだと思い込む。

私自身このような経験がありまして、ついぞわかったことは、検索して出てくるのは「病気や症状の一例」であって、「自分の中で起きている事実」とは違うということ。脳で見つけたオンラインの症例と自分の体に起きているオフラインの出来事は別世界にあります。自分の体の事は他人ではなく自分の体に聞けばいい、ということに気づきました。

最近では腸が第二の脳とも言われていますが、おそらく腸に限らず肉体の全てがセンサーなのですよね。私たちの体とは本当に精巧で、まさに地球に宿してもらった崇高なものと。これを思い出して人間の体本来の機能を全て取り戻したら、私たちってどうなるのでしょうね?

ではでは。