これは、私が佐那河内村の隣、神山町に住むフードフォトグラファー・近藤奈央(こんどうなお)さんとの公開往復書簡です。日々の暮らしの中で思ったこと、気づいたことをお互いのブログでお手紙のように伝えていきます。近藤奈央さんのサイトhttps://magewappa-bento.com/
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なおさん、こんにちは。
先日のお話、興味ふかい点が多々ありまして ウンウン頷きながら読んでいました。
さて、お手紙に登場した「柱」という文字について、確かに神様を柱と呼ぶのは私も不思議に思っていた点で、白川静先生の本を参照して調べてみました。
柱は、木偏 + 主 という構成ですね。
主という文字は、燭台を表しているそうです。燭台とはロウソクの台座のようなものです。中でも円柱の、真ん中がふっくらとしたエンタシス状のものを示す。
実は、これ以上詳しいことが書いておらず。困りました。神事からみる「柱」を解釈するには、古事記を読まないとと思いましたが、手が伸びなかったので、ここからは私の私見を記します。
・燭台とは、炎という光を灯す台。ということは、柱は光の受け皿で、光が降りてくるのを待つ場所と言えます。
・柱は、「大黒柱」という言葉から求めると「よりどころ」という意味を見出せます。
・話が逸れますが、「光=愛=神」という概念は、東西を問わず出くわす概念です。これに基づくと、柱に光が降りてこそ、神という存在たり得るのではないかと思われます。
以上から、天まで高く伸びた柱には光がともり、神が降りる。暗かった世の中に灯がともされ、人々のよりどころとなり、命が生まれ明るい時代が始まる。
日本が生まれた頃からある考え方なわけですが、2600年以上たったまさに今、必要なことではないでしょうか。
斎藤ひとりさんのお話も借りておきます。わたしたちの魂とは、分け御魂(みたま)。神様から分けてもらった魂ですから魂は神様と同等です。つまり、外側に求めなくても、わたしたちひとりひとりの中に、最初から神様がいるのだということ。
外側の出来事に振り回されず、内観し自分を信じ抜くけば道が開けることを確信して、自在に生きていきたいですね。