ヤッホー!暮らしの往復書簡vol.26 文字のエネルギー

2021.06.02

コラム

これは、私が佐那河内村の隣、神山町に住むフードフォトグラファー・近藤奈央(こんどうなお)さんとの公開往復書簡です。日々の暮らしの中で思ったこと、気づいたことをお互いのブログでお手紙のように伝えていきます。近藤奈央さんのサイトhttps://magewappa-bento.com/

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なおさん、こんにちは。美化という言葉に注目されたお話、なるほどと読んでいました。

魯山人によるもの・・・ということで、魯山人は書においても各種創作されていた方なので、今回は書の切り口で行ってみたいと思います。

昨日、来客があり、働くということについて様々議論していました。

田舎で暮らしながら仕事をしていると、ロジカルには処理できない”遊び仕事”という日々の出来事がついて回ります。遊び仕事って、例えばこんな感じです

・売るほどでもないけど美味しい野菜ができたから、ちょっとだけ販売してみる

・好きが高じて料理をしていたら、いつの間にか料理を作ってもてなす側になっていた

・パソコンの設定とか、パンクの修理とか、朝飯前なので頼まれればいつも対応している

持ちつ持たれつ支え合うコミュニティの中での出来事のようですね。

さて、なおさんや、記事を読んでいらっしゃる方に伺います。

「遊びって何ですか?」「あなたは遊んでいますか?」

→ 仕事で忙しいので遊んでいる暇なんてない。 いいよね〇〇さんはいつも遊んでて。

こんな風にお答えの方へ。そもそも「遊」という字源(文字の成り立ち)についてお話したいと思います。

遊ぶという文字

写真左は、現代の「遊」という文字。右は、「遊」の篆書体(てんしょたい)です。

篆書は、象形文字から発展した書体とお話ししたらわかりやすいでしょうか。古い時代の書体の一つです。私は絵のようでいてデザイン性の高いこの書体に魅力を感じており、篆書を読み解くのが趣味になりました。

右の篆書は、▽ と + の部分が 「子」つまり「人」を示しています。

子の上の部分は、竿に旗をたなびかせている様子。つまり「遊」という文字は人が旗を掲げている様子を表しています。古来、旗には神が宿ると考えられていて、とりわけ人は旅に出かけるとき旗を掲げていました。このような篆書の解読をしてきた白川静氏は、次のように記しています。私の大好きな一節なのでご紹介します。

「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな想像の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。」

ー白川静「文字逍遙」遊学論よりー

・「遊」ぶものとは、つまり神

・「遊」とは何にも拘束されない自由の中での行い

・「遊」とは神の行為で、私が神に触れる時、ようやく「遊ぶ」ことができる

「遊」とは、大変神聖な行為ということがわかります。因みに、神とは自分からかけ離れた存在ではなく、一人一人に生まれた時から内在しているもの。本当の自分を生きている時、私たちは神に等しいということになります。

いかがでしょう。

もし、忙しくて遊ぶ暇がないということでしたら、”神”である本来の自分を生きていない、ということになります。

もし、「熱中している遊びがある」、「遊ぶように仕事を楽しんでいる」ならば、神とともにある本来の自分とともに生きているということになります。

ということで、自分だけの「遊び」をぜひ肯定して、満喫しましょう!

めいいっぱい遊んでいる子どもたちや、あなたの近くの人、あなた自身に拍手を贈りましょう!

白川氏の著書はもっと奥深いのですが、今日はこのくらいで。興味があればご一緒に談義しましょう。

篆書って面白いなー。