これは、私が佐那河内村の隣、神山町に住むフードフォトグラファー・近藤奈央(こんどうなお)さんとの公開往復書簡です。日々の暮らしの中で思ったこと、気づいたことをお互いのブログでお手紙のように伝えていきます。近藤奈央さんのサイトhttps://magewappa-bento.com/
こんにちは。先日のなおさんのお手紙の内容は、雑に言ってしまうようですが
「嫌いだったものが実はもっとも愛するものだった」
という なんとも奥深く哲学的なメッセージでした。嫌いなものを凝視することほど嫌なことはありませんが、そのさきにあるものを見事に見出されたようで感動しました。
私は書と絵を習ってきたのですが、書の先生は言語化、視覚化して指導くださいました。とても親切です。
絵の先生は、二人いるのですが、二人とも、アドバイスを欲しいというと
「ちょっと、どいて。」と言っては無言で筆を走らせ。
「こんな感じ」
というご指導方法でした。
先生の背中と、手と、目を見るしかなかったのです。そしてこちらに向ける目もすごく研ぎ澄まされていたので、自信のない私にはいつも緊張して不安が付きまとっていました。
「無題」に関連して「ノールール」ということで書いてみたいと思いました。
私の母校(高校)の事例です。実は、校則がない学校でした。
「自主自立の精神に基づき、良心で判断せよ」のような一言だけが生徒手帳に書かれていました。
多感なハイティーンたちの園にも関わらず、ノールール。大丈夫なのか?と思われますが、これがなんとかなっていたのです。
授業に出なくてもいいが、自己責任。休講や補講の丁寧な連絡もなく、自分で見つけに行く。見つけられなかったとしても自己責任。
なぜなんとかなっていたのか?
私が当時を振り返り今思うのは、”与えられるのを待っているのでは遅いよ”という無言のメッセージが降り注いでいる環境でした。自分の得意/不得意に関わらず、積極的に何かを取りに行くことが苦ではない生徒で成り立っていたのかもしれません。
社会生活上、ルールは便利です。効率的になること、判断がたやすくなることなどのメリットは実感できます。
ノールールになったときこそ、人間の真価が試されるというか。
社会の秩序が破壊され、混沌としている今、私たちは試されているんでしょうねえ。
(写真は一昨年訪問した足摺岬。弘法大使の伝説の一つが残る場所です)