徳島・上勝町にあるcafe polestarの東輝実さんとのたわいないけれど、それでいて遠くを見通すようなお喋りの記録。「さわさわしたコーヒー」とは、熱くて口に入れたらもうしゃべれないくらいハフハフしてしまうようなコーヒーのこと。詳しくは輝実さんに聞いてみましょう
東輝実さんのサイト https://note.com/nanimiyon
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輝実さん
こんにちは! お返事を2週間ためてしましました。ゴメンナサイ
今日は完全に主観・私感で綴りたいと思います。
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11月、何度か上勝へ向かいましたが、道中、気になってた風景が何ヵ所がありました。
秋が深まっているなあと思いながら、所々で上勝の山桜が狂い咲きしているんですよね。確かに小春日和とも言えそうな暖かな日が断続的に訪れることもありました。まるで三寒四温の春の頃と間違えて、花を咲かせてしまったのかもしれません。
私たち人間は、11月から12月に向かっているだけで、徐々に秋が深まっていると思い込んでいます。実は、秋は深まっておらず、季節は狂っているのかもしれない。そんなことを自然界は感知し、狂い咲きの姿を通じて私たちに警鐘を鳴らしているのだろうと感じました。
●時間のこと
この前の輝実さんとの会話で、ちょっとしたトンデモ発言をしました。
「私は1日は24時間だと思っていない。」
確かに、社会生活を営む中では、「時間」や「時刻」共通した指標として便利です
・7時に家を出る
・9時を過ぎたら”遅刻”
・14時に待ち合わせをする
など。
一方で、自然の時間の流れを意識してみます。
今は11月末。17時をすぎればかなり暗いですが、夏の17時はまだ明るい。もしかして冬に向かうほど1日は短くなっているのかもしれない。根拠はありませんが、そんな体感覚があります。
人の年齢でも時間の感じ方が違います。
例えば、5~6歳の子と1時間遊ぶことにしましょう。私が時計を見ながら彼らと1時間を過ごそうとしますが、大体の子が30分、せいぜい45分で限界がきます。おそらく成人のわたしたちと、時間の流れる速さや密度がが違うのです。
大人になるほどに口にする、
「あっという間に年末で、本当に早い」「年々、月日が経つの早く感じる」
これも、あながち間違っていないと思うのです。
そこで私が感じているのは、一人一人の持つ時間感覚は、本来違うのではないかということ。
また、一人の人間であっても、成長過程で時間感覚は変化し、成人となっても外的環境や心理状態によって時間感覚は日々多様に変化しているのだろうと。
●賞味期限の話
以前、アシスタントとしてついていたシェフがいます。彼女は、賞味期限を見ないのですね。自分が味見して、大丈夫であれば使う。当時の私にはショッキングな出来事でした。それまでの自分の感覚では”ありえない”ことでしたが、ふとズームアウトして眺めると、食べ物についての本質的なテーマを含んでいるような気がしてきました。
私たち現代の消費者は、食べ物の期限を賞味期限という「日付」で判断していることが多いです。
海や山と共に暮らす人々は、食べ物と対峙して、「食べられるか/食べられないか」をその都度判断しているように思えます。
例えば「発酵食」。
発酵食品の一つである阿波晩茶の生産者に、「発酵と腐敗はどこに線があるのか。」と聞いたことがあります。
すると
「線はないと思います。人間の都合で発酵か、腐敗か決めている」と、答えが返ってきました。
なるほど、発酵とはとても有機的で、合理的に数字で決め込んでいくものではなさそうです。
●まとめ
時計のなかった時代は、日が上れば起き、日が暮れたら家に帰る、暗くなったら眠る生活でした。時計に頼らず自然のリズムに任せて社会が回っていたのですよね。
上勝や佐那河内で過ごす者として、人間の本能的な時間のリズムを再確認したくなりました。
例えば食欲。そこに「期限を確認して食べる」というプロセスは、本来ありませんでした。五感を澄ませて安全性を察知し、口に入れる。万が一 危険要素を孕んでいても、私たち人間には消化器官が毒素を感知して排泄するシステムがある。日付で判断する脳より、体のシステムはとても精巧なのではと思います。
私たちの体は、合理的に刻まれた時間に従わずとも、安全に生きる能力を備えています。
そんな「自分の本来の時間」に気づき始めることで、生きる力を取り戻していくのではないかと、妄想しているこの頃です。
追伸:目覚まし時計を使えない
これについては いつかお話ししましょう