ヤッホー!暮らしの往復書簡vol.78

2022.06.08

コラム

これは、私が佐那河内村の隣、神山町に住むフードフォトグラファー・近藤奈央(こんどうなお)さんとの公開往復書簡です。日々の暮らしの中で思ったこと、気づいたことをお互いのブログでお手紙のように伝えていきます。

近藤奈央さんのサイトhttps://magewappa-bento.com/

===========

なおさん

こんにちは。

アートをめぐる画家とキュレーターやさまざまな立場の方の想いの交錯。

どちらがいいだろう、今出るべきか、まだか・・・といった逡巡

それぞれの立場は違っても、「良いものを表現したい」という想いは一つなのでしょうね。

なおさんの投稿のおかげで、思い出せてくれたのですが、

私は大学生の時、キュレーターやアートマネジメントを志して、

ギャラリーにインターンに通ったり、美術館でアルバイトをしていました。

展覧会の企画からパーティ、会期中のあれこれなど携わったのを思い出します。

なぜキュレーターやアートマネジメントを志したのか?

ちょっと回顧してみたいと思います。

* * * *

学生の時ですから20年ほど前。

アートマネジメント志した理由は、二つあります。

一つは 画家の恩師に「画家にはならないでほしい」と言われたこと。

もう一つは父に「(作家として)自分の作品など売ってはならない」と言われたこと。

「え、なんで?」

と思いつつも、覆すほどのエネルギーがなかったので、二者の意見をそのまま飲み込みました。

では、画家にはならず、自分の作品は売らないけれどアートに携わる仕事はないのか?

そこでキュレーターとかアートマネージャーの道に繋がったのです。

要は消去法でした。

しばらくアート系のNPOなど掛け持ちしていた時もありました。

短い時間でしたが、アートマネジメントといえど、歴史や法律まわり、アートとビジネスのバランス感覚、外国のギャラリストとのやりとりから、現場の肉体労働まで 業務内容には ハードな記憶があります。

その後就職の時期になり、結局、商業デザインの道に進みました。

デザインの仕事に浸るうち、自分の作品を作ることなど無くなりましたが

東日本大震災を機に 書の道が開き、

気づいたら作品を制作する立場になっていました。

ローカルスタンダード展(青山スパイラル 2019年)

「こうなってはならない」と思い込んできた場所(作家)に、20年経って辿り着いた私。

当時は、二人から受け取った言葉を、文字通りに解釈していました。

後で気づくのですが、二人の言葉には、

無理をさせたくない、厳しい道を歩まないでほしい、という男性的な愛情が含まれていたのですよね。

戻ってきたということは、やっぱり私は作品を作ることになっていたのでしょう。

ではなぜ作品を作るのか?

これは 答えを出すのにもう少し時間がかかりそうです。