これは、私が佐那河内村の隣、神山町に住むフードフォトグラファー・近藤奈央(こんどうなお)さんとの公開往復書簡です。日々の暮らしの中で思ったこと、気づいたことをお互いのブログでお手紙のように伝えていきます。
近藤奈央さんのサイトhttps://magewappa-bento.com/
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なおさん
こんにちは。
アートをめぐる画家とキュレーターやさまざまな立場の方の想いの交錯。
どちらがいいだろう、今出るべきか、まだか・・・といった逡巡
それぞれの立場は違っても、「良いものを表現したい」という想いは一つなのでしょうね。
なおさんの投稿のおかげで、思い出せてくれたのですが、
私は大学生の時、キュレーターやアートマネジメントを志して、
ギャラリーにインターンに通ったり、美術館でアルバイトをしていました。
展覧会の企画からパーティ、会期中のあれこれなど携わったのを思い出します。
なぜキュレーターやアートマネジメントを志したのか?
ちょっと回顧してみたいと思います。
* * * *
学生の時ですから20年ほど前。
アートマネジメント志した理由は、二つあります。
一つは 画家の恩師に「画家にはならないでほしい」と言われたこと。
もう一つは父に「(作家として)自分の作品など売ってはならない」と言われたこと。
「え、なんで?」
と思いつつも、覆すほどのエネルギーがなかったので、二者の意見をそのまま飲み込みました。
では、画家にはならず、自分の作品は売らないけれどアートに携わる仕事はないのか?
そこでキュレーターとかアートマネージャーの道に繋がったのです。
要は消去法でした。
しばらくアート系のNPOなど掛け持ちしていた時もありました。
短い時間でしたが、アートマネジメントといえど、歴史や法律まわり、アートとビジネスのバランス感覚、外国のギャラリストとのやりとりから、現場の肉体労働まで 業務内容には ハードな記憶があります。
その後就職の時期になり、結局、商業デザインの道に進みました。
デザインの仕事に浸るうち、自分の作品を作ることなど無くなりましたが
東日本大震災を機に 書の道が開き、
気づいたら作品を制作する立場になっていました。
「こうなってはならない」と思い込んできた場所(作家)に、20年経って辿り着いた私。
当時は、二人から受け取った言葉を、文字通りに解釈していました。
後で気づくのですが、二人の言葉には、
無理をさせたくない、厳しい道を歩まないでほしい、という男性的な愛情が含まれていたのですよね。
戻ってきたということは、やっぱり私は作品を作ることになっていたのでしょう。
ではなぜ作品を作るのか?
これは 答えを出すのにもう少し時間がかかりそうです。